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東山動植物園の歴史

4.東山動植物園の開園

昭和12年3月3日、動物園より一足早く植物園が開園した。春雨のけぶる中、午後1時からの開園式には市当局、財界、報道関係者232人が招かれ、現在の上池門前の広場に設けられた式場で天野川名神社社司のお祓いの後、大岩市長の式辞、名商議会頭、愛知県社会課長、市会議長、東邦瓦斯の都留信朗社長らの祝辞が続いた。園内ではすし、汁粉、関東煮、花見団子、うどん、果物、酒、ビール、サイダーが30余名の芸妓によってふるまわれ、記念に花きが配られた。また市電東山線と東山公園から植物園前までの市バスが増発され、出席者の輸送にあたった。式は盛況のうちに散会し、3時から一般に開放された。

当時は現在と違い大温室だけが有料で、開園時間は午前8時30分から午後5時、観覧料は大人10銭小人5銭であった。大温室は面積約1,400平方メートル(現在は拡張されて2,400平方メートル)、椰子室、蘭室、羊歯水生食中植物室などがあった。石炭ボイラーで沸かした摂氏80度の湯が床下を流れており、夜間でも華氏65度を下ることがないよう設計されている。その頃、日本は南進策をとりつつあり、南洋果樹へのあこがれがあったのだろう。裏の果樹栽培室には当時としては珍しいバナナ、パイナップル、パパイヤ、キャッサバなどが植えられ、花き栽培室ではサイネリア、シクラメン、サクラ草の花が咲いていた。薬用植物園、竹林園、児童園、牡丹園、椿園、紅葉渓、奥池などは無料であり、自由に入ることができた。

初代植物園長には前述の横井時綱技師が就任、職員は技術者、作業員、事務員あわせて14、5名で、うち10名は外園を担当する外園係に所属している。また後に植物学者となる井波一雄氏が、大温室担当の臨時職員として翌年に徴兵されるまで働いていた。
同年3月24日、東山動物園が開園した。観覧料は大人15銭小人5銭である。ひっそりとした植物園とは対照的に、動物園の正門付近は一目ライオンやシロクマを見ようと集まった観覧者で連日あふれかえった。この年の4月の動物園観覧者数は46万人余り、当初の年間観覧者の予定は100万人弱であったから、1月でその半分近くを達成したことになる。市電は2月27日に覚王山から東山公園まで延長されていたが、連日満員となり、乗りきれないひとたちが延々道を歩いていたという。

動物園の施設は当時としては大変斬新なもので、ドイツのハーゲンベック動物園が開発した無柵放養方式を、ライオンとシロクマの放養場に取り入れていた。正門から入ると右手に標本陳列室、胡蝶池にかかる橋のむこう正面に現在も残る大噴水が水をふきあげている。さらに両側に並んだ鉄筋コンクリートの獣舎の間をすすむと、ひときわ目立つ高さ約18メートルの大水禽舎、その奥には熊舎、オットセイ池、アシカ池、ラクダ舎、野牛舎、キョンの山などが並んでいた。

3月30日にはハーゲンベック動物園からシロクマ1頭、カバ1頭、シマウマ1頭、サイ2頭、サル8頭、ペンギン6匹が到着、動物園の展示はますます充実したものとなった。6月1日には動物園の開園以来の観覧者が120万人を突破する。汎太平洋平和博覧会が開催されていたため、延期されていた動物園の竣工祝賀式が6月19日におこなわれた。当日と翌日は「竣工祝賀デー」とされ、19日には園外野外劇場へ800名を招待して西川里喜代社中の舞踏を、20日には同じく児童舞踏が披露された。また両日の入園者全員に、パンフレットとタイからきた子ゾウの命名懸賞の投票用紙が配られている。ちなみにこの懸賞の一等賞品は置時計と動物園竣工記念文鎮であった。

翌昭和13年には開園1周年記念として、北王動物園長の提案で、古代池付近にハーゲンベック動物園に倣った恐竜のコンクリート製等身大レプリカ3体が設置された。(イグアノドン、プロントザウルス、トリケラトプス)この恐竜のレプリカの他にライオン放養場、大噴水、正門の門柱などが戦火をくぐりぬけて現存している。ハーゲンベック動物園との交流はその後も続き、昭和13年2月にはシロクマのつがいと交換にマナヅル4羽、タンチョウヅル2羽、ナベツル2羽、シマリス150匹、ガチョウ38羽が贈られた。

一方、一足先に開園した植物園の観覧者は、3月21日にこの年最高の3,403人を記録している。3月、4月の合計観覧者は52,000人だった。もっともこれは温室等の観覧者で、外園地区のそれは計上されていない。

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