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東山動植物園の歴史

3.開園への道

大正15年1月28日に東山一帯267万平方メートルが、都市計画公園として内閣の認可を得て決定告示され、これによって法的な環境は整備された。昭和6年には当時の大岩市長が北王動物園長に「手狭になった動物園を山崎川周辺へ移転させたい」といっているが、この話は結局沙汰やみになったようだ。昭和7年春、第1回動物まつりを開催するための協賛会の席上で、東山一帯へ動物園を移転させる話が持ちあがっている。

昭和7年10月24日、東邦瓦斯株式会社の岡本社長より植物園建設費として25万円を名古屋市に寄付したいとの申出があった。この時点で市長の頭に東山動植物園の構想が浮かんだようだ。覚王山東一帯の森林地帯、当時の東区田代町と天白村八事付近はもともと御料林だったが、水野鐘三、清水貞雄、中村慶吾の各氏が払い下げを受けていた。市長は愛知県の公園係加納主任、市の石川技師らとともに現地を視察、地主との交渉を開始した。ただし予算はない。無料で寄付してくれという虫のいいお願いだったにもかかわらず、水野鐘三氏を始めとする地主たちは東山一帯の土地を市に寄付した。

当時の東山地区は旧愛知郡道が右左にまがりくねりながら通じているのみで、現在の動物園本園一帯は水田であった。正門付近の下池(現在の胡蝶池)、ボートの浮かぶ上池はともにかんがい用のため池であり、ヨシが一面においしげっていた。茶店が1軒だけポツンとたっていて、2時間に1本のバスに乗る者は茶店備え付けの赤旗をふってこれを止める。今日では考えられないような牧歌的な光景である。

昭和8年5月29日、名古屋にドイツの動物園経営者ローレンツ・ハーゲンベック氏率いるサーカス団がやってきた。ローレンツ氏はドイツの動物園王と呼ばれたカール・ハーゲンベック氏の弟である。カール氏はハンブルグの郊外に無柵放養方式の動物園を経営するとともに動物商としても大いに活躍、熱帯の動物を寒帯の気候に慣れさせ、その地域の餌で飼育するという技術を持っていた。サーカス団は現在の県庁と東海財務局付近で公演をうったが、その期間中、北王動物園長はローレンツ氏の宿舎である名古屋市東区の万平ホテルをしきりに訪れて、動物園の様式や飼育方法などを語りあっている。ローレンツ氏も北王園長のもとを訪れるとともに、記念としてオオヅル1羽を動物園に寄贈した。昭和11年9月にローレンツ氏は動物園建設にかんする貴重な資料をドイツから北王動物園長へ送っている。

昭和10年4月3日には「東山公園」が開園した。しかし、これは公園の周辺と中央に道路を整備しただけのものであり、まだ動植物園の影もかたちもなかった。10月30日には名古屋市議会で「動物園移転拡張の件」が可決された。動物園の移転・拡張が公的に認知されたわけである。

設計工事は植物園が先行した。まず2月には京都府大山崎村で株式取引業加賀正太郎氏所有の温室の世話をしていた水野耕一氏が、植物園の技術者として招聘された。当時、日本には温室がまだ数少なく、皇室や華族、一部財産家が所有しているだけであり、水野氏の技術は貴重であった。同じく2月、当時名古屋市に採用されたばかりの一円俊郎技手に大温室設計の命がくだった。5月、市議会で設置関連予算242,000円が可決され、10月には大温室の設計を完了、昭和11年3月中旬には基礎工事を完了し、丘陵地の間に18万平方メートルの土地が整地された。このようにかなりのハイペースで整備は進捗している。また大温室の鉄骨組立て工事の際には、一円技手の発案で当時の最新技術である電気溶接を採用した。リベットで鉄骨を組み立てると、どうしても継ぎ目にでっぱりが生ずる。それを避けるための工法である。10月には事務所前の清見橋が完成した。11月8日には大温室の鉄骨、木骨が、ほぼ同時期にウグイス谷、奥池も形を整えている。12月には千畳敷回遊の小道、牡丹園、竹林があいついで完成した。これらの造成工事は後に初代植物園長になる横井時綱技師が担当している。横井技師は尾張藩の俳人、横井也有の子孫である。大温室の中の植物は水野耕一氏が手配した。前述の加賀正太郎氏からはランを、神戸の貿易商からゴムの木やガジュマル、三井財閥の池田成彬家からアレカヤシの大木を入手し、大温室完成まで八事にあった豊田喜一郎氏の別荘の温室に預けた。

一方、動物園予定地では昭和11年7月3日に地鎮祭がとりおこなわれ、工事が開始された。名古屋市は動物園の敷地が大きく広がることを考慮し、春から夏にかけてペンギン、野牛、キリン、シロクマ、チンパンジーなどを購入。昭和12年1月にはアシカのオスを、3月には大阪市天王寺動物園からライオン3頭を入手して備えている。

鶴舞から東山への動物園移転の準備も始まり、1,000余点の動物は「巨大組」「猛獣組」「臆病組」「海獣組」「熱帯組」に大別された。ライオンなど、猛獣を移動させるのは一大事業であるが、中でも最も困難が予想されるのがゾウの移動である。そのため東京の上野動物園からタイ人のゾウ調教師、ノッパ・クン・ウイドラ氏を招聘し、調教を依頼した。

動物の移動は昭和12年1月24日から始まり、延べ28回をかけて3月22日に無事終了した。最初に移動したのはマレーグマ、ハイエナ、スナドリネコ、キノボリクマ、ヤマアラシ、アライグマなど計14匹。動物たちは午前9時から4時間かけてオリに入れられ、1台のトラックで東山へ運ばれた。ついでシロクマのつがい、クロヒョウなどが公会堂、大学病院、今池、覚王山というコースで移送された。最も難しいゾウは3月13日、特製のオリに入れられ、トラクター2台に引かれて時速3キロで慎重に移動した。東山に到着したのは午後3時であった。その姿を一目見ようと沿道は黒山のひとだかりであったという。

この間、2月11日には旧名古屋市動物園がひっそりと閉園し、19年間の歴史にピリオドを打っている。

一方、開園が近づくにつれ東山公園付近の地価が急騰した。市が田代耕地区画整理組合から寄付された土地も急騰し、これによって20万円の収入を得ている。

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