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東山動植物園の歴史

2.鶴舞時代

こうした事情を受け、名古屋市では大正6年度当初予算に動物園設置費として29,000円余、同年度の追加予算に12,000円余を計上し、設置工事を開始した。
大正7年4月1日、鶴舞公園付属動物園が現在の勤労会館付近に開園した。開園式は4月20日に行なわれ、松井愛知県知事、陸軍から大庭第三師団長、各新聞社の社長や市会議員など多数の来賓が出席し、式典終了後には「聞天閣」において祝いの宴が開かれている。

動物園の面積は1万700平方メートル(現在は32万平方メートル)、その敷地はうなぎの寝床のように細長く、入園料は大人5銭、小人3銭、初代園長は岩田重義氏であった。収容動物は今泉氏の寄付したものを始めトラ、ヒョウ、ワニ、ヘビ等100余点、鳥類はセキレイ、ヒタタキ、ホトトギス、カッコウなど270余羽、他に魚類も飼育されていた。職員は園長、書記2名、監視と呼ばれる守衛が4名、観覧券発売担当の女性雇員2名、使丁、畜養人が7名、計16名という陣容であった。雇員までは市から辞令が出るが、現在とは異なり使丁、畜養人といった飼育担当の職員は動物園が雇用しているのである。動物を寄付した今泉氏は、大正12年まで飼育主任として在籍したという。(園長という説もあるがおそらく誤りであろう。)

こうして昭和12年、東山へ移転するまで19年間の鶴舞時代が始まる。その間に敷地も拡張され、動物の種類、収容点数も順次増加していった。

大正7年4月にライオン1頭を購入、同年6月タンチョウヅル2羽が誕生、同じく9月に大蛇2匹を購入、大正10年には安藤銀行(現安藤証券)から寄付された8,000円でインドゾウ「花子」を購入した。花子は特に芸をするわけでもなく、暴れ者で愛想もなかったが、その巨体からか人気者になっている。

大正12年5月15日、大阪市天王寺動物園から後に園長になる北王英一獣医が技手として着任した。その着任祝いというわけではないだろうが、8月には天王寺動物園からシロクジャク1羽が贈られてきた。9月初旬、関東大震災が東京を襲った直後、市電が東新町から鶴舞公園まで延長され、動物園西門のすぐ西に「動物園前」という電停が設けられた。このためか、この年の入園者は前年の49万2,000人に対し57万人と、16%の伸びを示している。12月13日、岩田重義動物園長が退職願いを提出し、代わって北王技手が弱冠23歳で園長代理に就任した。 大正13年7月、北王園長代理の初仕事ととして、水牛舎新築と水鳥舎改築工事をおこなっている。続いて大正14年1月にはアザラシ舎を新築。9月には北王園長代理が東宮御所に伺候し、樺太産ヒグマの下賜を受けた。残念ながらこのヒグマは昭和2年11月13日に死亡してしまう。戦前のことだからこれは大騒ぎとなったが、特に宮内庁からのお咎めなどはなかった。10月には周辺の水路や道路を取り入れて手狭になった敷地を1,300平方メートルほど拡張した。11月19日にはおりから名古屋へ行幸中の天皇陛下より、ラオス産のサル2頭を下賜する旨の通知を受けた。おそらく死んだヒグマの代わりだったのであろう。また大正15年5月にはラクダ1頭を購入、7月にはサル舎を改築するなど、敷地は狭いものの園内の整備は着々とすすんでいった。当時、一番の人気者はゾウの花子、他に2頭のライオンとヒョウ、トラも人気があった。昭和2年12月14日には北王園長代理が正式に動物園長に就任している。

昭和3年9月15日から11月30日まで鶴舞公園で名古屋博覧会が盛大に開催される。付属動物園もその会場となり家畜館、小鳥館などが設けられた。娯楽の少ない当時、博覧会の総入場者は150万人を記録し、その余波で動物園も大いににぎわったようだ。(当時の名古屋市の人口は87万人であるから、現在に置き換えると400万人近い入場者があったことになる。)

昭和4年4月1日には「名古屋市立動物園」と名称を変更、独立した動物園となった。収容動物は340種、780余点だった。平成7年10月末現在の収容動物は612種、2万909点であるから、点数は別にして、それなりの種類はそろっていたわけである。

昭和6年4月、動物園で最大のゾウと最小のポケットザルの体重当てクイズを実施すると各新聞に発表。応募のハガキが殺到する中、4月11日にゾウ舎で「花子」の体重測定がおこなわれ、2,566キログラムと公表される。6月にはドイツのハーゲンベック動物園からシロクマのつがいを、7月にも動物商からダチョウのつがいを購入した。間もなくオランウータン、ニシキヘビ、ワニの獣舎が完成。このように動物園独立とともに整備もすすんでいった。

昭和7年2月26日、日本で初めての試みとしてNHKラジオからライオンとワニの鳴き声を生中継で全国に放送した。また、5月14日から23日まで第1回動物まつりが開かれ、正門付近から等身大のキリンの置物、動物パノラマ館、愛玩動物の展示場、ドイツの先進的な動物園であるハーゲンベック動物園の模型展示などが並んだ。また中央サル舎付近にハトポッポ郵便局が開設され、陸軍の第三師団と名古屋新聞のハト班から伝書バト200余羽が参加、入園者の通信を師団司令部と新聞社へ空輸した。このまつり期間中の5月15日には20,317人の有料観覧者があり、開園以来最高の記録となっている。また昭和9年5月、朝鮮の京城動物園からカバを購入し、「重吉」と名づけたところ、たちまち人気者になった。

昭和6年に満州事変が勃発、暗く重苦しい戦雲が中国大陸をおおいはじめるが、このように国内はまだ平和で、人々は娯楽を求めていた。しかし耳をすませば戦争の足音が確実に迫っているのが聞こえてきた。昭和10年8月30日、名古屋市連合防護分団の下に動物園長を団長として「動物園防護分団」が結成された。9月1日には名古屋市全市で防空演習が実施されている。

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