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東山動植物園の歴史

3.昭和20年代

終戦、復興

インドゾウのマカニーとエルド、チンパンジーのバンブー、カンムリヅル2羽、ハクチョウ1羽、その他鳥類約20羽。以上が終戦の日を迎えた動物たちである。昭和18年には、279種961点の動物たちがいたというから、戦争の犠牲がいかに大きかったかがうかがえる。

終戦後の動物園復旧作業は、職員が昼夜を徹して行い、昭和21年3月17日、再び開園することができた。動物園が、これほど早く再開できたことは楽しみの少ない荒廃した世相の中で、動物園の果たすレクリエーション的役割が、いかに大きかったかを物語るものである。

また、子どもたちに何とか夢を与えようと、動物園も懸命の努力をした。昭和24年の「ゾウ列車」、昭和26年の「移動動物園」、「動物サーカス」(ニコニコサーカス)などは、東山の歴史に大きな足跡を残している。

一方、収容動物の確保にも大変苦しんだ。豚やウサギ、小鳥たちが、しばらくはピンチヒッターを引き受けていた。戦後初来園の猛獣は、昭和22年12月、北海道からやってきたヒグマの「タケオ」である。翌、昭和23年7月にはヒグマの世界最長寿記録を残しその一生を全うした「ビホロ」が来園している。そして、昭和24年7月には、待望のライオンが、アメリカのソルトレイク市ホーグル動物園から送られてきた。当時、市では、盛大なライオン歓迎式を行っている。

昭和25年以降は、年々、動物たちが来園し、順調に復興の道を進んだ。昭和30年3月末には、収容動物数が235種895点となり、戦前並みの規模に復活している。

終戦直後に飼育していた動物について、動物園関係者が改めて調査したところ「哺乳類が6種9点、鳥類は12種13点で哺乳類と鳥類を合わせて18種22点」と判明しました。
(令和2年6月30日更新)

開園10周年記念「春の祭」を開催中の正門付近
(昭和22年)
ライオンの来園を祝う様子(昭和24年)
ライオンの来園を祝う様子(昭和24年)

戦争を生きぬいた、インドゾウの「マカニー、エルド」と「ぞう列車」

東山は、開園の年の12月、木下サーカスから4頭のインドゾウを購入した。「キーコー、アドン、マカニー、エルド」がそれである。鶴舞時代からいた「花子」を加えると全部で5頭が飼育されていたので、当時ゾウが、東山のシンボル的な動物になっているのがうなずける。

5頭のゾウの内「花子」は昭和14年1月に、「キーコー」は昭和19年2月に、「アドン」は昭和20年1月に、それぞれ亡くなった。しかし、「マカニー、エルド」の2頭は、関係者の必死の努力で苦しい戦争時代を乗り越え、生き抜くことができた。日本で、終戦後に見ることができたゾウは、この2頭だけであった。「マカニー、エルド」が戦後の東山の人気を支えたのは言うまでもない。力強いゾウの姿は、子どもたちに大きな夢を与え、その人気は、現在のパンダ、コアラをしのぐものであったといわれている。

やがて、「マカニー、エルド」の人気を伝え聞き、ゾウのいない東京の子どもたちから、「ゾウを一頭、譲ってください。」と熱心な陳情が始まった。ついには、都知事を立てての陳情となり、昭和24年4月21日、当時の上野動物園の古賀園長が来名し北王園長や市当局と交渉した。その結果、「譲ることはできないが、しばらく貸してもよい。」ということになった。このとき、世論は、「貸すべきだ」、「貸すべきでない」と、二分して騒いだ。しかし、結果は貸すこともできなかった。マカニー、エルドの結びつきが強く、2頭を引き離すことができなかったのである。引き離しにかかると、残されたエルドは、頭を壁にぶつけ血を流して抵抗し、悲しい、大きなラッパ音をとどろかせ気が狂ったように暴れたという。

東京の子どもたちからは、その後も陳情が続いたが、そんな中で、東京、名古屋の両都市、国鉄の間で、「それでは、名古屋のゾウさん見学のために・・・。」と話が持ちあがり実現したのが、「ゾウ列車」である。昭和24年6月18日、「ゾウ列車第1号」が、彦根市の子どもたちを乗せてやってきた。ついで、東京都、三重県、埼玉県、千葉県・・・と相次いで「ゾウ列車」が名古屋に到着したのである。ゾウに出迎えを受け、ゾウに触れ、ゾウに乗った子どもたちの感激は、言うまでもなかった。成人した彼らの心には、今も、「マカニー、エルド」が生きているという。

「ゾウを譲ってください」と陳情に訪れた東京の子どもたち代表(昭和24年)
「ゾウを譲ってください」と陳情に訪れた東京の子どもたち代表(昭和24年)

移動動物園と動物サーカス(ニコニコサーカス)

戦後の荒廃した世相の中で、絵本でしか見たことのない動物を、何とか子供たちに見せてあげようと「移動動物園」が企画された。そして、昭和26年3月12日~5月29日の間、移動動物班を編成し、知多半島を皮切りに岐阜県や三重県へと出かけた。ライオン、ヒョウ、ピューマ、ヒマラヤグマ等が主役であったが、行く先々で大変な人気があったのはいうまでもない。地元の願いで、しばしば予定を変更することもあったという。この「移動動物園」の成功の経験が、「動物サーカス」の編成へと発展していった。短期間の調教で苦労も多かったが、昭和26年10月1日、「ニコニコサーカス」と命名して開幕した。動物の団員は、ゾウのマカニー、エルド、新しく来園した和代、ニホンザル2頭、アシカ、ヤギ、オウム5羽であった。この「ニコニコサーカス」は、楽しみの少ない子どもたちにとって最高に楽しいイベントであった。そして、東山の名物となり、その後、20年も続いたのである。

移動動物園の人気(昭和26年)
移動動物園の人気(昭和26年)

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