2.開園、そして戦争
東洋一の動物園
「広すぎる」、「辺ぴな場所に人が来るだろうか」という批判の声があり、北王園長も、「果たして人が来てくれるだろうか」と、心配の日が続いた。しかし、開園後の入園者の波を見て、「すべての心配が吹きとんだ」という。そして、開園1週間後の昭和12年3月30日には、動物園建設にあたり、いろいろ指導助言を受けた、ドイツのハーゲンベック動物園より、ホッキョクグマ、カバ、シマウマ、ニルガイ(ウシ科のほ乳類)、ペンギン、サル類などの動物たちが到着し、明るい話題に取り囲まれる中で、昭和12年6月19日、「東山動物園竣工祝賀式」が挙行された。
その後、8月には、アフリカからキリンが到着。12月には、木下サーカスから4頭のインドゾウを購入した。翌、昭和13年には、開園1周年を記念し、古代池に「恐竜の模型」が完成し、さらに、「猿が島」が新設された。こうして、施設、展示内容が、一段と充実し、名実ともに、「東洋一の動物園」を誇ったのである。
戦争と動物たち
東山公園の建設が計画されたころ、日本は、すでに第2次世界大戦への道を進み始めていた。昭和6年、「満州事変」を引き起こし、軍部が力を強めた。開園の年の昭和12年7月には、日中戦争の発端となった「盧溝橋事件」が勃発した。こうして世間は、戦争の色を濃くしていった。木下サーカスからインドゾウが購入できたのも、動物園の熱意に加え、「もし、戦争になれば・・・」という、木下団長の心配もあったからとされる。動物園での催しも、「軍馬、軍用犬、軍用鳩の慰霊祭」、「戦死動物慰霊祭」、「出征軍人家族招待」など、世相を反映したものが多くなっていった。そして、昭和16年12月8日、日本は太平洋戦争(第2次世界大戦)に突入したのである。
それは、人間はもちろんのこと、動物たちにとっても、厳しい受難の時代の始まりであった。戦争が進み、敗戦への道を進むに連れ、日本の食糧事情は、日増しに悪化し、当園でも、動物の命を守るため、食糧確保に必死の努力がなされた。園内の空き地を開墾し、サツマイモ、ジャガイモ、ムギ、カボチャなどを栽培し、野草をかき集め、飼料の自給に努めた。しかし、こうした努力にも限度があり、多くの動物たちが飢えと寒さで次々と亡くなっていった。
昭和19年12月13日、あの名古屋大空襲の日、動物園は、罪のない者を死刑に追いやるような、例えようのない重苦しい空気に包まれた。「治安維持」を理由に、猛獣類の射殺が命ぜられたのである。ライオンが、ヒョウが、トラが、つぎつぎと射殺された。何も知らない動物たちの命が、戦争の犠牲となって失われていったのである。
昭和20年に入ると、空襲による被害も日増しに多くなり、1月13日、動物園は一般観覧を停止した。そして、2月16日には、動物園を軍が使用するため閉園となった。
戦争による被害は、動物や施設ばかりではなかった。敗戦色が濃くなるにつれ、駐留していた兵士たちの心が荒れ、動物園の貴重な資料を勝手に持ち出し、燃やしてしまった。古代池のほとりでウップン晴らしに燃やされる資料を見て、職員は、ただ無念の涙を流すだけであったという。