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東山動植物園の歴史

5.昭和40年代

動物園の方向転換

ゴリラショーの人気は絶大であった。それは日本中の注目を浴び、東山の代名詞ともなった。しかし、ゴリラが成長するに従い、野生の本性が現れ、人間によってコントロールすることが困難になった。こうして、昭和43年6月3日、「ゴリラショウ」は幕を閉じたのである。

このころ日本は、経済の高度成長期にあたり、社会情勢が安定すると一般の関心は自然や環境の保護に向けられた。こうした中で、動物愛護の重要性が論議され、一般に"動物愛護法"といわれる「動物の愛護及び管理に関する法律」(昭和48年法律第105号)の制定へと機運が高まってきた。こうした世相を反映し、動物たちの意志を束縛する"動物ショウ"には、厳しい意見が注がれるようになった。昭和26年から20年間も親しまれてきた「ニコニコサーカス」も、昭和46年をもって終止符をうったのである。そして、「見せる動物園」から「動物本位の動物園」へと、動物園の姿勢が大きく方向転換していったのである。

東山の代名詞となった「ゴリラショウ」
東山の代名詞となった「ゴリラショウ」

東山の再開発始まる

昭和42年、開園30周年記念の「キンダー・フェア」が終了したころ、市では、東山公園一帯の大改造計画が持ち上がった。そして一年後の昭和43年7月29日、市長は、「東山総合公園再開発計画」を発表した。その第一歩として、同年8月1日、東山総合公園事務局が発足し、動物園と植物園が「東山動植物園」として一体化された。

この再開発計画に基づき、動物園は、各種施設の整備が進められた。その第1号として昭和45年4月14日、「バードホール」がオープンした。この施設は、無柵放養形式から一歩進み、人と動物との間に隔障物が全くないユニークな施設として高い評価を得ている。同じ年の10月24日には、子どもたちが動物とのふれあいを楽しみ、動物について学ぶ場として「こども動物園」がオープンした。続いて、「コビトカバ舎」、「新類人猿舎」、「エネルギーセンター」、「アフリカゾウ舎」等が整備されていった。こうして再開発事業の始まった動物園は、1年毎に、その様子を変えていったのである。

再開発第1号のバードホール

国際交流時代に

海外の動物園との交流は、開園以前からすでに始まっていた。動物園設計にあたって、ドイツのハーゲンベック動物園長のローレンツ・ハーゲンベックより助言を得ている。開園の年の昭和12年には、同動物園から、ホッキョクグマ、カバ、シマウマ、ペンギンなどが送られてきた。戦後の復興期には、アメリカのソルトレイク市ホーグル動物園から、ライオン、ピューマなどが送られ、温かい応援を受けている。しかしこれらは、一方通行的な交流であった。
動物が親善大使となって国際交流が始まったのは、昭和30年代に入ってからである。昭和31年2月28日、アメリカのメンフィス市から、ビーバー2頭が贈られてきた。このお礼に、日本の代表的な動物であるタヌキが贈られた。これが国際交流の幕開けとなり、その後、北京市、ソウル市などとの交流があった。

昭和40年代に入り、日本が国際舞台で活躍するに伴い、動物園でも、本格的な国際交流が始まった。そして昭和44年10月17日には、名古屋市とロスアンゼルス市との姉妹都市提携10周年を記念し、東山動植物園とロスアンゼルス動物園が姉妹動物園となって結ばれた。動物の国際交流から動物園の国際交流へと進んだわけである。
こうした国際交流は、単に動物を交換するだけではない。貴重な動物をお互いに保護し、情報交流を行い、お互いに学び合う機会を提供する。

鶴舞公園の市立名古屋動物園を訪れたローレンツ・ハーゲンベック氏(昭和8年)
鶴舞公園の市立名古屋動物園を訪れた
ローレンツ・ハーゲンベック氏(昭和8年)

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