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東山動植物園の歴史

1.植物園前史

名古屋の都市計画

大正9年1月1日、都市計画法が施行され名古屋の都市計画が始まった。大正11年の関東大震災を受け避難地としての公園整備の必要性が叫ばれるなか、大正14年1月、24公園、1公園道路、総面積160余万坪の遠大な名古屋の公園計画が内務大臣に具申された。これは、地方がつくった我が国初の公園計画であり、多少の変更はあったもののほぼ原案通り可決され、翌大正15年1月内務省告示をされた。

この名古屋の公園計画のおよそ半分、約81万坪の面積を誇るのが第16号公園(森林公園)、現在の東山公園である。当時の名古屋市の市街地はせいぜい覚王山あたりまでで、森林公園のあたりはまったく都市公園になりそうもないただの山奥だった。

都市計画図
都市計画図

寄附による植物園の誕生

昭和7年(1932年)、東邦瓦斯株式会社(現東邦ガス)から、植物園の整備費として25万円の寄付申し入れがあった。その年の9月には名古屋の博物学者・梅村甚太郎率いる名古屋博物学会から、「陳情書 植物園及標本館設立ノ件」として植物園と標本庫の設置要望が市会に提出された。これらを受け大岩市長は動物園・植物園を備えた一大公園の実現を考え、森林公園(現在の東山公園)をその候補地として定め、現場踏査や地主との無償譲渡の交渉に入った。昭和8年末、建設予定地の確保がほぼ完了し、昭和12年の開園に向け事業が進行していく。

東洋一の植物園

当時の大岩市長は、東洋一の動物園・植物園を作ろうと考え、植物園は大温室で日本一、東洋一を実現しようとした。植物園の計画案は6万坪(19.8ha)を有料・無料の2区画に分け、有料区内は大温室をはじめ、教材植物園、工芸用植物園、郷土園、高山植物園などの見本園が主であった。無料区には紅葉谷、桜林、梅林、花菖蒲園、竹林などが計画された。

中でも目玉であった大温室は鉄骨造り総ガラス張り、中央高さは40尺(12.5m)の巨大なものであり、ヤシ、シュロ、バナナなどの熱帯樹木をはじめ水生植物や食虫植物、多肉植物などが展示された。また付属の栽培室には花卉、果樹、蘭などが展示された。大温室は収容する植物への光量を確保するために電気溶接工法がとられ、鉄骨のアングルも美的感覚を取り入れた物であった。また平等院鳳凰堂を思わせる左右対称な美しい姿から「東洋一の水晶宮」と称された。

開園当時のパンフレット
開園当時のパンフレット
開園当時の温室
開園当時の温室

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