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オフィシャルブログ

名古屋カバ入り物語(8)

2011年11月04日(金)

今回は前回に引き続き二代目「重吉」と「福子」について書きたいと思います。

二代目「重吉」「福子」にとってのはじめての子どもは昭和32年4月に生まれました。このはじめての子どもはメスでした。


「福子」とはじめての子ども


2年後、2番目の子どもとしてオスのカバが生まれました。二代目「重吉」夫婦の長男にあたるこのカバは、はじめ姫路市立動物園に婿入りしました。しかし、この長男の成長を待つ間にメスのほうのカバが死亡してしまい、子どもはありませんでした。その後、後妻として迎えたカバが実はオスだったという手違いがあり、この長男は昭和43年に天王寺動物園へと転出し、そこで「フトシ」と命名され安住の地を得たようです。

それからも二代目「重吉」夫婦は次々と子宝に恵まれ、昭和40年8月には6番目の子ども(メス)が生まれました。この子どもは上野動物園へ行き、「ナゴヤ」と命名されました。

上野動物園には、二代目「重吉」と同じ船で日本にやってきた「デカオ」と「ザブコ」という夫婦がいましたが、メスの「ザブコ」のほうは既に亡くなっていました。「ナゴヤ」は父親とは顔見知りの「デカオ」に嫁入りしたことになります。そして、現在東山で飼われている三代目「重吉」の曾祖父「ムーミン」(三代目「重吉」の父「カブ」の母方の祖父)を産んでいます。

昭和43年、二代目「重吉」夫婦は新築された現在のカバ舎へと引っ越ししました。旧カバ舎(爬虫類河馬館)は、爬虫類館としてその後もしばらく存続しました。「河馬のブロンズ像」もその中に残ったままだったと思われます。


新しいカバ舎に移ったカバ


新しいカバ舎に移っても出産ラッシュは続きます。昭和42年にゴリラショーが中止となりスター不在の東山動物園。二代目「重吉」一家はスターとはいえないまでも東山の人気者であり、二代目「重吉」「福子」は日本のカバの中で最も有名なカバになっていきます。昭和50年代の名古屋オリンピック招致活動。マスコットに選ばれたのはカバでした。


二代目「重吉」一家


一方で、産まれすぎた二代目「重吉」の血統は、海外へも拡がっていきました。昭和51年生まれの12番目の子どもは台湾へ、昭和62年生まれの17番目の子どもは中国へと旅立ちました。


「福子」と17番目の子ども


このあとも2頭の子どもを産み、全部で19頭の子どもを産んで日本一多産なカバとして歴史に残ることになった「福子」は、平成9年に永眠しました。このとき、日本の動物園にいるカバの6割が二代目「重吉」と「福子」の子孫だったといわれています。

平成11年、メキシコからメスの子カバがやってきました。でも、外に出ているのは「メイ」と名付けられたこの子カバだけ。このとき、日本カバ界の"ゴッドファーザー"こと二代目「重吉」は推定年齢51歳。さすがに老いは隠せず、後ろ肢も悪くして、獣舎の中で体を横たえる日々が続いていました。

平成13年4月、二代目「重吉」永眠。

後継者として選ばれたのは南紀白浜のアドベンチャーワールドにいた「トニー」でした。「トニー」の母親「ミイ」二代目「重吉」夫婦の長男「フトシ」の娘。すなわち「トニー」二代目「重吉」のひ孫にあたります。また、「トニー」の父親「カブ」二代目「重吉」夫婦の孫「ムーミン」の孫ということで、父方から見ても「トニー」二代目「重吉」の子孫になります。

同年11月、「トニー」「メイ」は先代の名を襲名し、三代目「重吉」二代目「福子」になり、襲名披露及び結婚式が開催されました。大須から嫁入り道具のパレードも行われ、東山のカバの新しい時代の幕開けとなりました。


カバの重吉・福子の襲名・結婚式


嫁入り道具のパレード

後編「カバの嫁入り編」 完

今日で、東山動植物園のカバの歴史物語はおしまいです。次回はこのブログの最終回"あとがき"として現在のカバたち、三代目「重吉」と二代目「福子」のことを書きたいと思います。


再生整備課再生整備係  西尾 健司

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