名古屋カバ入り物語?C
秋まつり開始の前日、9月16日からはじめた連載も今回で4回目!
前回の終わりにさらりと「河馬の噴水」と書きましたが、そう実は「河馬のブロンズ像」は噴水の一部だったのです。
カバの上にとまったカエルの口をよく見ると穴があいており、そこから水を噴きだしていたようです。
今回はまずこの「河馬のブロンズ像」の製作者の話から。
石川栄耀は、「河馬のブロンズ像」の製作を新進彫刻家の佐土哲二に依頼しました。
佐土哲二という人物は、明治の文豪、国木田独歩の次男です。
東京都武蔵野市三鷹駅北口の「独歩の碑」には国木田独歩のレリーフが埋め込まれていますが、このレリーフの製作者も佐土哲二です。
昭和9年5月22日、石川栄耀と佐土哲二は完成した「河馬のブロンズ像」を携えて来名し、大岩市長にお披露目しました。
これを見た大岩市長は、
「こりゃええ、こりゃええ」と感嘆。
丸田町に設置される予定だった「河馬の噴水」は、一転して前年完成したばかりの市役所の前に設置されることになりました。
このとき、鶴舞公園の動物園では第3回動物祭が行われていました。
まもなく名古屋入りする本物のカバへの期待に満ちた会場には、カバの看板が掲げられていました。
そして5月30日、京城動物園からやってきた本物のカバがついに名古屋入りしました。
名古屋初のこのカバは、名古屋初の空港(名古屋港にあった)の開港と「大名古屋祭」に沸く10月1日、「重吉」と命名されました。
一方、この頃の東山公園(当時の名は森林公園)のほうはというと、狩野公園課長の死去という不幸もあってあまり進展していませんでしたが、昭和9年6月末に野間守人が公園課長に就任すると、7月末には田代土地区画整理組合から土地3万坪の寄附の申し出があり、開園に向けた動きが活発になっていきました。
ただ、「動物園移転」はいまだに正式な決定を見ず、売却代金をこの費用にあてることが暗黙の了解だった土地3万坪を市が受け取ることはなかなかできませんでした。
翌年1月に「東山公園」の名が決まり、4月に東山公園が開園しても、「動物園移転」の問題は決着せず、10月末になってようやく正式決定となったようです。
今回はこれでおしまい。
次回は東山動物園開園までのお話です。
再生整備課 西尾 健司