名古屋カバ入り物語?A
前回紹介した「河馬のブロンズ像」を寄附したのは、戦前の名古屋における代表的な都市計画家・石川栄耀という人です。
石川栄耀は文化人としても活躍し、ジャーナリストたちの評判もよく、当時の新聞にたびたび登場しています。
ところで「栄耀」は何と読むのでしょう?
「ひであき」と読む場合が多いのですが、「えいよう」とも読むようです。「ひであき」は本名、「えいよう」は文化人としての雅号のようなものでしょうか。
専門家ではないので石川栄耀についての詳しい説明は省略して、東山公園とのかかわりについてだけ書きたいと思います。
昭和7年6月頃、当時東山公園に隣接する田代土地区画整理事業を手がけていた彼は、大岩勇夫名古屋市長からこう相談をもちかけられたといいます。
「実は森林公園(東山公園の当時の呼び名)だが、あれをモノにしたい。それについては土地は買えない。是非寄附してもらうより仕方がない。間に入ってくれまいか。」「実はその公園設備についても考えがある。」
このとき大岩市長がいった「公園設備」というのが「植物園」と「鶴舞公園から移転する動物園」であると思われますが、この時点ではどちらも世間に公表されていないことでした。
こうして彼は東山公園の用地確保に奔走することになります。また、名古屋で「お祭りを二つ三つこしらえた」のが自慢というお祭り男の彼は、この年8月に都市公園の価値を高めようと「公園祭」をこしらえました。この第1回公園祭には、用地すらない東山公園は当然参加していませんが、動物園がある鶴舞公園では目玉企画として動物園の夜間開園が用意されていました。
こんな昔にもナイトズーがあったんですね。
第1回の写真がなかったので、代わりに第2回のときの正門の写真を載せておきます。
カバと関係ないことを長々と書いてしまいましたが、次回はカバが名古屋にやってくるきっかけとなった昭和8年の出来事のことを書きたいと思います。
再生整備課再生整備係 西尾 健司