名古屋カバ入り物語?E
秋まつりも後半へとさしかかり、動物会館のパネル展も今週から後期展示「東山動植物園の歴史の紹介」へと変わりました。
今回で6回目となるこの連載も後編「カバの嫁入り編」に突入します!
後編1回目となる今回は、名古屋初のカバ「重吉」のお嫁さんのお話から始めましょう。
東山動物園開園直後の昭和12年3月30日、ドイツのハーゲンベック動物園から白熊の牝などとともにカバの牝がやってきました。
東山動物園開園直後のことですし、他にもたくさんの動物が入ってきたので、このカバの嫁入りはそれほど注目されなかったかと思われます。このためか、東山動物園が出している出版物の中にはこのカバの牝の名前が掲載されているものは1つもありません。
このカバの牝は、昭和16年7月18日に「重吉」の子を出産します。当時の新聞には母親のカバの名前も出ているかもしれないと思って探してみたところ、「ヅーシ」という名前が出てきました。
でも、「ヅーシ」って何だか変な名前ですね。どういう意味があるのでしょう?
まず考えられるのはドイツ語。
ドイツ語だとスージー(欧米女性の名前スーザンの愛称)はズージーになるようです。本当はズージーなのでしょうか?
あるいは日本語で、「重子」と書き「ジューシ」と読んだのでしょうか。それとも、いかにも重そうなイメージで「ズーシ、ズーシ」と足音を表現したのでしょうか。
「ヅーシ」の名前の由来は結局よく分かりませんが、この「ヅーシ」が産んだ「重吉」の子は「重太郎」と名付けられたようです。「重太郎」は赤ちゃんでも7貫(約26?s)ありました。
こうして、「重太郎」が誕生し、カバの一家3頭は幸せに暮らしていました。ところが、戦争の影はすぐそこにまで迫っていたのです。
この年の12月には、日本軍による真珠湾攻撃があり、日米が開戦してしまいました。その後、戦争は悪化の一途をたどっていき、やがてこのカバの一家にも破滅のときが訪れました。
「重吉」と「ヅーシ」は戦時中の食糧難のため餓死させられたようです。そして迎えた昭和19年12月13日、名古屋に初めての本格的な空襲があり、カバ舎の近くにも爆弾が落ちました。「重太郎」はこの爆発に驚き、狂ったように走り回り、壁に何度もぶつかって死亡したといわれています。
戦後の昭和23年、中京新聞という当時の新聞社(昭和27年廃刊)が「猛獣のいない動物園の淋しさを補おう」と猛獣画廊という企画を提唱し、戦争で主がいなくなったカバ舎に3人の画家による猛獣画が飾られました。
猛獣画の前には、「重吉」とともに歩み、今は淋しく取り残されてしまった「河馬のブロンズ像」の姿もありました。
今回はここまでとして、次回は戦後はじめてやってきたカバの話から始めたいと思います。
再生整備課再生整備係 西尾 健司