時には医者、時には植物学者...

伊藤圭介ってどんなひと?

伊藤圭介のイラスト

多くの分野で活躍した伊藤圭介ですが、
どのような人生を歩んでいたのでしょうか?
ここでは圭介と、その仲間たちとともに、
圭介の主な業績を紹介します。


圭介の仲間たち

圭介と関わった人々は数知れずですが、
その一部の人たちをここで紹介します。

伊藤圭介の主な業績

伊藤圭介、弟子入りする

 1803年、名古屋の地に生まれた伊藤圭介は、医者である父から医学を学んでいましたが、植物が大好きな若者でした。圭介が16歳の頃には、水谷豊文らから本草学を学び始めます。

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圭介は水谷豊文らと共に、名古屋に訪れていたシーボルトを訪ね、医学、博物学について教えを受けました。
シーボルトからの誘いもあり、圭介は長崎で博物学を本格的に学び、名古屋に帰る際にシーボルトからFlora Japonica(日本植物誌)*を受け取りました。

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伊藤圭介、本を書く

 シーボルトから受け取った「Flora Japonica」を訳し、圭介が27歳の頃に「泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)」を出版します。この泰西本草名疏では、当時最新であったリンネ*の植物分類法が紹介され、日本で初めて「おしべ」や「めしべ」、「花粉」という言葉が使われました。
また、圭介が35歳の頃には、飢饉に備えて「救荒植物便覧」を刊行しました。救荒植物は、飢饉の際にも食べることができる野生植物のことを指し、この本ではそれら植物を紹介しています。圭介は飢饉を災いとしてとらえ、その後も、植物だけでなくその調理法も記した「救荒植物集説」も刊行しています。

泰西本草名疏 付録 二十四綱図

泰西本草名疏 付録 二十四綱図


伊藤圭介、医者としても大活躍

 若い頃より、植物だけでなく医学についても勉強していた圭介は、尾張の地域で初めて牛痘種痘法(ぎゅうとうしゅとうほう)*を紹介しました。圭介が48歳の頃には自宅に種痘所をつくり、近隣の子供達にお小遣いをあげて種痘を打っていたそうです。
圭介は尾張藩に医学校の開設を要望し、その医学校が後の名古屋大学医学部へとつながります。

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伊藤圭介、日本初の理学博士になる

 多くの分野で活躍した伊藤圭介ですが、59歳の頃に江戸へ出向き、幕府で動植物や金石類の研究を行いました。圭介が78歳の頃には小石川植物園担任を命ぜられ、その翌年には東京大学教授になります。そして圭介は86歳で我が国初の理学博士の称号を受けます。
 当時の代表的な雑誌「太陽」では、圭介は科学者としてNo1とされ、伊藤博文、渋沢栄一らと並んで明治12傑に選ばれました。1901年、圭介は99歳(数え年)でその長い生涯に幕を閉じます。

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伊藤圭介と伊藤篤太郎

 伊藤篤太郎は、小さい頃より祖父である圭介に植物学・博物学を学ぶなど英才教育を受けていました。篤太郎は18歳でイギリスへ留学に行きますが、その時も圭介が金銭面等で支援をしていたようです。圭介の学問的継承者として、日本人で初めて新種植物(トガクシソウ)に学名(Ranzania japonica)を与えた人物となりました。

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