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東山動植物園の歴史

1.動物園前史

浪越教育動植物苑から鶴舞公園へ

明治23年、今泉七五郎氏が、自ら収集した動植物1,000余種を「浪越教育動植物苑(通称「今泉動物園」)」と名付け、中区前津町で一般公開した。同苑は、明治43年10月に大須門前町に移転しているが、ニシキヘビ、ライオン、トラ、サルなど一応の動物を揃え、"動物の見世物小屋"として、多くの人で賑わった。東山の遠い前身が、この「浪越教育動植物苑」である。

ラクダに乗って選挙の応援に出向くなど、当時、変わり者として有名だった今泉氏も、大正時代に入り、周辺からの悪臭苦情や氏の志を継ぐ後継者がいないことに悩んだ。大正7年3月、氏は所有の動物481点を、そっくり名古屋市へ寄附したのである。獣類79点、鳥類273点、ワニ類2点、カメ類27点、ヘビ類48点、魚類52点が、その内訳であったという。

一方、名古屋市では大正4年2月27日に、市長あての「動物園建設に関する意見書」が議決されており、動物園建設の機運高まる中で今泉氏の寄附を受け、大正7年4月1日、「名古屋市立鶴舞公園付属動物園」が開園したのである。

同園は、昭和4年に「市立名古屋動物園」と改称し、昭和12年に東山公園へ移転するまでの19年間、市民の動物園として、多くの人に親しまれたのである。

鶴舞公園時代の正門
鶴舞公園時代の正門

鶴舞公園から東山公園へ

鶴舞公園の動物園は、昭和7年市立名古屋動物園要覧によると敷地面積3,650坪(12,066平方メートル)、ウナギの寝床のように細長い、決して広いものではなかった。しかし、夏季の夜間開園や各種の催しがあり、多くの人が来園した。特に、昭和3年の名古屋博覧会や、昭和8年の世界動物探検博は、想像を絶する大賑わいであった。名古屋博覧会の入場者が、2ヶ月間で150万人を記録していることからも想像がつく。こうして、動物や施設が充実し、発展を続けた鶴舞公園の動物園も、さすがに狭さを感じるようになった。昭和7年ごろから、動物たちの新天地を求め、移転の用地探しが始まったのである。

一方、名古屋市は昭和7年6月に、東区田代町唐山地区(現・千種区)に、植物園、動物園を包含した一大公園を建設する計画を完成し、「大森林公園建設計画」として準備を進めた。公園名称は、「東山公園」と定められ、昭和10年4月3日に開園した。動物園は、この「東山公園」内に移転することが決定し、昭和12年の春に開催される「汎太平洋平和博」を目途に準備が進められた。昭和11年7月3日、地鎮祭を挙行。総工費595,000円を投じ、昭和12年3月24日、真新しい「東山動物園」が開園した。動物の引越しは、1月24日より28回に分けて行い、4月6日、無事完了した。

新しい動物園は、面積166,320平方メートルと鶴舞の約13倍。施設は、ドイツのハーゲンベック動物園長の助言を得て、ライオン舎、ホッキョクグマ舎に無柵式放養形式を取り入れるなど、きわめて斬新的で、名古屋の新しい名所として自慢の施設となった。

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