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8. ゾウの運命

残ったゾウについても、軍はその処分を指示してきた。園長は「ゾウは家畜同然でおとなしい」と反論したが、軍の態度はますます強硬になっていく。園長は中部軍司令部の獣医部長へ「常時鎖で前足を拘束するから」と助命を嘆願した。幸いにもこの嘆願が効を奏し、状況を毎月報告するという条件で当分の間、処分は見合わせとなった。こうしてせっかく処分をまぬがれたゾウたちだが、飢えと寒さからキーコが肺炎にかかり、昭和20年1月末に死亡してしまった。

1月13日、三河地震が起こった日、植物園に続いて動物園も一般観覧を中止する。糧秣庫にしたいという軍からの指示に従ったのである。本土決戦に備えるため、1月16日付けで名古屋に挽馬編成の第123「松風」師団が編成されており、このための措置であろう。市長は軍管区へ抗議したが効果はなかった。1月13日の時点で生き残っていた動物はゾウ4頭、チンパンジー1頭、サル10数頭、カンガルー1頭、ワニ2匹、水鳥50数羽などであった。戦前700種、1,000点を越えていたのだが、他はすべて処分されるか、病飢死していたのである。数日後、軍はフスマ、キビなど軍馬の糧秣を動物園へ運びこみ、園長室は糧秣所長である大尉の執務室となった。一般事務室には将校が10名程度、他に下士官兵が40名ほどいた。

皮肉なことに軍の駐屯が2頭のゾウの命を救うことになる。キーコの死を契機に、園長と飼育係員たちは軍の糧秣を盗んで残ったゾウ、マカニーとエルド、アドンに与えることを決意したのである。早朝や夕方、兵たちの目を盗み、積んである糧秣の袋に先をとがらせた竹筒を突きさす。筒を通って流れおちるキビの実(マイロ)やフスマをバケツか麻袋に受け、ワラや枯れ草といっしょに煮てゾウに与えた。ワラは猪高村の農家、大鐘家から動物の糞と交換に入手したものである。しかし、こうした懸命の努力にもかかわらず、2月初旬、キーコに続いて今度はアドンが死亡してしまった。

状況はさらに悪化する。2月15日には東方から侵入したアメリカ軍のB29爆撃機約60機が東区から千種区、動物園付近を爆撃。当時園内官舎に住んでいた北王園長は、空襲があると妻子をコンクリート造りの正門キップ売り場へ避難させていたが、この日は危険を感じ丘の中腹の防空壕へ退避させた。園長の予感どおり、爆撃は激しかった。爆弾がラマ舎と野牛舎の間に落ち、手負いとなった野牛が脱走を図る。間一髪のところで大日本狩猟義勇団千種分団長の宮嶋照氏が駆けつけ、北園へのトンネル付近でこれを射殺した。空襲が終わってみると、園内松林のあちらこちらには大きな爆弾の穴があき、カバ舎付近では水がたまって池のようになっている。小屋はつぶれ、屋根がわらは吹っ飛ばされて一枚も残っていない。事務所の窓ガラスは割れ、付近は散乱する瓦礫で足の踏み場もなく、樹木の幹は爆弾の破片で大きくえぐられている。まさに惨澹たる有様であった。 

3月、当時の満州から千種区の東海軍管区司令部獣医部に、三井高孟獣医大尉が転属してくる。三井大尉は動物園がゾウの餌確保に難渋しているのを知り、部下にキビの実をゾウ舎の通路に置くよう指示した。飼育係員は大尉の意図は知らなかったが、これをこっそりゾウに与えた。兵たちも薄々気づきながら見て見ぬふりをしていたようだ。

一方、駐留する軍将校は動物園を無用の長物とみなして、北王園長に対してもしきりに侮蔑的な言動をおこなう。酔った勢いで軍刀をふりまわすこともあった。耐えかねた北王園長は6月中旬、退職願を提出すると郷里の京都府田辺町へ引っ込んでしまった。

そしてついに運命の8月15日。万策尽きた日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。なかば廃墟とかした動物園には、兵役をまぬがれた事務員2人と飼育係員6人が呆然とたたずんでいた。この惨禍を生きのびた動物は痩せ衰えたゾウ2頭、チンパンジー1頭、カンムリヅル2羽、カモ20羽、ハクチョウ1羽だけであった。

7. 戦時下の動植物園 | 参考文献等

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