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7. 戦時下の動植物園

昭和16年12月8日、日本海軍の機動部隊はハワイの真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊を急襲した。日本は無謀にも米英に戦いを挑んだのである。当初、日本軍は英国東洋艦隊の戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウェールズを撃沈するなど連戦連勝で、国内に直接的な戦火は及んでいなかった。動植物園にも目立った動きはなく、昭和17年の正月には出征軍人の家族・遺族を動物園に招待、3月15日から31日まで「大東亜動物展示会」を開催し動物分布図、剥製標本、原産地生活状態図を展示している。10月25日には動物祭を開催、出征軍人の子供を招待した。ゾウの曲芸も相変わらずの人気で、ショーの最初には「撃ちてしやまん」の横幕を鼻で広げてみせている。昭和16年夏、こうしたショーは日曜祭日に一日3回、平日でも1、2回おこなわれていた。動物の餌など物資は欠乏しはじめていただろうが、ショーの開催などまだ余裕が感じられるし、観覧者数も特に減少はしていない。しかし戦火は間近に迫っていたのである。

昭和17年4月18日、秘密裏に日本近海まで接近した米空母「ホーネット」より16機のB25爆撃機が発進、東京を始め日本各地を攻撃し、中国大陸の連合軍基地めざして飛び去った。うち2機は東山公園上空を飛行、名城付近にあった陸軍病院と馬糧庫等を爆撃している。緒戦の勝利に酔っていた日本人は頭から冷水を浴びせられたような心持ちになった。

昭和19年2月になると燃料事情が悪化し、植物園の温室用ボイラーの石炭が払底してしまった。水野耕一温室主任は慌てて高針地区で炭を焼いている人に依頼し、山の中に炭焼き釜を築いてもらった。そこで外園係員が園内で間伐してきた育ちの悪い松や雑木を焼いて木炭にするのである。苦労して臨設の釜で焼いた木炭は大部分市役所に運ばれ、残りを動植物園で使用した。動物園からはその見返りとして肥料用のゾウの敷きワラが植物園へ送られた。温室のランに使う油カスなども品切れとなっており、これらは大変貴重な肥料となった。また昭和16年ころから志段味、長久手方面で石炭不足を補うためにさかんに亜炭を採掘していた。水野主任は長久手地区の業者に赴き、なんとかその納入を依頼することに成功した。しかし、こうした職員の努力にもかかわらず、戦局の悪化にともない10月31日には一般観覧が中止になっており、さらに昭和20年3月25日には空襲で温室に被害を受けている。5月31日には横井時綱植物園長が辞表を提出し退任した。二代目に擬せられた水野耕一氏が就任を拒んだため、園長辞令の発令が遅れ、園長席は6月21日まで空席のままであった。このときには動物園と同様、植物園も名ばかりの存在になっており、園内は完全に麦やイモの畑と化していたのである。

一方、動物園をとりまく環境も厳しくなるばかりであった。昭和18年8月、大達東京都長官の指示により上野動物園の猛獣11種、24頭が空襲時に危険だという理由で毒殺された。しかし3頭のゾウだけは利口で、毒入りの餌をどうしても食べようとしない。このため当局は3頭の水と餌を絶ち、無惨にも餓死させる方針をとった。ゾウのジョンは8月23日に、ワイリーが9月11日に、トンキーは9月23日にそれぞれ死亡している。10月、この経緯は手紙で東山動物園のゾウ調教師、ウィドラ氏に知らされた。この手紙を読んだ動物園長以下、職員の心に不安な思いが広がった。

そうした不安はほどなく現実のものとなった。まず10月には1頭のライオンが猟友会に払い下げられ、万一に備えての試射の的となって処分された。11月、佐藤正俊市長から軍の要請があるので猛獣を何頭か処分しろという指示が届いた。北王園長は飼育係員らと相談の末、やむなくライオンとヒグマ各1頭を処分することにした。

11月4日、ヒグマは毒入りのパンを食べ、ほとんど瞬時に死亡した。ライオンは5頭飼育されていたが、餌は配給されず、職員が闇で求めた牛馬の臓物でかろうじて生きのびているような状態だった。満州の新京動物園が以前からライオンを求めたため、園長は2頭を新京へ送り、残り3頭のうちの1頭を薬殺することにした。11月下旬、飼育係員が苦労して肉を入手し、毒薬をしこんで与えたが、ライオンはそれを察知して口にしようとしない。やむなく4人がかりでライオンの首に鋼鉄のロープをかけ、ウィンチを使って絞殺した。12月、2頭のライオンは新京でなく蒙古の張家口に寄贈されたようだ。その後の運命は不明である。

この頃には多くの輸送船がアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されたため、食糧事情が急速に悪化した。昭和18年中頃から年末にかけて動物園の花壇や空き地、新池の堤防で、ジャガイモ、大麦、小麦、カボチャ、大根、落花生などの栽培が始まる。正門斜面花壇のツツジもサツマイモに変わってしまった。昭和19年になると園内の空き地はほとんど畑とかす。それでも餌が不足し、職員が2人一組になってリヤカーを引いて近郊の農家へワラを、製粉工場へフスマをもらいに歩いた。途中空襲に遭遇し、リヤカーを捨てて防空壕に逃げこんだこともあったという。しかしそれでも草食動物は肉食動物にくらべればまだましであった。まさに「苦肉の策」として病餓死した動物の肉を食べさせたが、必要量にはほど遠く、多くの動物が餓死していく。飼育係員はさぞ無念であったろうが、自分たちの食料さえ満足に確保できない状況ではいかんともしがたい。

動物園に対する世論も厳しくなり、軍は猛獣やゾウの処分を要求してくる。新聞には「空襲時の危険」を訴える市民の投書が掲載された。それに対し北王園長は「猛獣舎は鉄筋コンクリート製で頑丈。オリがこわれる程なら中の動物も死ぬ」と反論した。(昭和19年7月5日付中部日本新聞)警防団からは再三処分の申し入れがあったが、その度に園長らは言を左右にして引きのばしを図った。「非国民」呼ばわりにも耐えしのんだ。しかし、そうした方法にも限界がある。昭和19年12月13日午後、アメリカ軍のB29爆撃機約80機が名古屋市内に爆撃を加えた。当日の午後3時、園長室に警防団員が詰めかけ「内務省からも射殺命令がおりた。」と処分を迫る。ことここに至り、園長も首をたてに振らざるをえなかった。猛獣の「処分」という名の「虐殺」が開始された。軍と警察関係者30人ほどが立ち会う中、大日本狩猟義勇団の千種分団員が45分の間にヒョウ、トラ、クマ各1頭、ライオン2頭の計5頭を射殺した。さらに数日後、ツキノワグマなどクマ8頭が「処分」された。

6. 迫る戦雲 | 8. ゾウの運命

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